テーマ2: 個性と学び
資料2B: 「習熟度別指導」は有効か
そもそも学校は、階級や階層や人種や性の格差を克服し平等な社会を実現することを社会的使命としていますが、もう一面で、差別と選別によって階級や階層や人種や性の格差を再生産する機能をになわされています。この差別と選別は、能力や進路に応じて学習コースを振り分けるトラッキングにおいてもっとも顕著に機能しています。「習熟度(能力)別指導」は、トラッキングの一つの方法です。
[中略]
学力テストの得点に応じてグループやクラスを編成する方式です。厳密に言えば、学業達成の到達度に応じてグループやクラスを編成する「習熟度別指導」と知能テストで測定した能力のレベルに応じてグループやクラスを編成する「能力別指導」は区別されるべきでしょうが、知能テストによってグループやクラスを編成する事例は稀である、学力テストの結果に即してグループ分けを行ったものを「ability grouping」と呼んでいます。[中略]
● 「習熟度別指導」の効果
「ability grouping」[中略]と呼ばれる「習熟度(能力)別指導」は、教育的に有効なのでしょうか。「習熟度(能力)別指導」の有効性については、アメリカを中心に1970年代から80年代にかけて膨大な数の調査と研究が行われています。その調査結果を検証する限り、「習熟度(能力)別指導」の有効性は疑わしいものです。「習熟度(能力)別指導」の有効性を実証する調査研究は一部に限られ、大部分は「習熟度(能力)別指導」の無効性と危険性を実証する結果を示しています。「習熟度(能力)別指導」は、教育的には否定的な効果をもたらすというのが、これまでの調査研究の総括的な結論です。まず、アメリカにおける「習熟度(能力)別指導」の調査研究を総括し、その有効性について検討しておきましょう。
「習熟度(能力)別指導」に関する研究者、カリフォルニア大学のジェニー・オークス(Jeannie Oakes)は、「習熟度(能力)別指導」に対する期待を概括し、その教育効果を検証しています。オークスの『トラックを守る ――― 学校は不平等をどう構造化しているか』(Keeping Tracks: How schools Structure Inequality, Yale University Press, 1985 )とその後の彼女の論稿を中心に紹介しつつ、「習熟度(能力)別指導」の調査研究の概要を検討しておきましょう。オークスの一連の研究は「習熟度(能力)別指導」の効果を実証的に調査した信頼される研究であり、彼女の著書は「教師の必読書」として高く評価されています。
(1)「習熟度(能力)別指導」は生徒の学力向上に有効か?
オークスは、小学校における「習熟度(能力)別指導」のグループ(クラス)編成によって学力が向上したという事例は存在しないと述べています。ただし、オークスは一部の研究に限られていますが、複式学級や無学年制の学級における柔軟性のある「進度別指導」によって平均点が上昇した事例はあると指摘しています。
中学校の「習熟度(能力)別指導」でも、「上位」「中位」「下位」のどのグループにおいても、混声のクラス編成より学力が向上した調査結果はないと述べています。
ただし、オークスの結論に異論を提出する研究者もいます。そのほとんどは中学校の「上位」グループにおける効果を主張する調査結果であり、「中位」グループや「下位」グループにおける学力向上の結果を主張するものは稀です。しかも「上位」グループにおける有効性を主張する調査結果の大半は「英才教育」のプログラムの評価であり、英才教育の推進者による調査研究の結果です。
オークスの結論とそれに異論を唱える人々の結論とは対立しているようですが、矛盾していません。オークスは「上位」グループにおける効果を示す調査研究が存在することを否定していないからです。ただし、オークスは「上位」グループにおける効果は、同程度の能力の生徒を集めたことによるのではなく、勉学のモチベーションの高さや宿題の多さなどの複合的原因による効果であると述べています。
これらの結論を総合すると、「習熟度(能力)別」のクラス編成による教育は、一般の予想を裏切り、生徒の学力向上に有益ではないことがわかります。特に「下位」グループの生徒にとって「習熟度(能力)別指導」は危険です。
(2)仲間関係と学習態度に効果はあるのか?
オークスは、「上位」「中位」「下位」のグループ内の人間関係と学習態度についても調査しています。「習熟度(能力)別指導」は仲間関係と学習態度に影響を与えますが、中学生の場合、「上位」グループは学業に熱心になる一方、「下位」グループでは生徒が孤立し疎外される傾向を示したといいます。「上位」グループの生徒は、学力に対してだけでなくすべてに自信を持っているといいます。しかし、それが「習熟度(能力)別指導」の効果なのかどうかについては不明瞭であると指摘されています。
なお、「習熟度(能力)別指導」によって「下位」グループの生徒たちが積極的に学習に参加できる効果を期待する教師は多いのですg、オークスは、「下位」の生徒が混成のクラスと比べて「習熟度(能力)別指導」クラスのほうが積極的に学習に参加するという結果は認められないと述べています。「下位」にレベルを合わせた内容だから、あるいは、まわりも皆「下位」の生徒たちだから安心して学びに積極的に参加するというのは教師の偏見のようです。
(3)学力格差は縮まるのか?
「習熟度(能力)別指導」によって生徒間の学力格差を縮めることは可能なのでしょうか。オークスは、どの調査結果も「習熟度(能力)別指導」によって学力格差はいっそう拡大する結果を示していると言います。これは常識的に考えても当然でしょう。
オークスの研究で重要なことは、「習熟度(能力)別指導」による学力格差の拡大が「能力」の差異によって生じているのではなく、「上位」「中位」「下位」の各グループの教育内容と学びの質の差異によって生じていることを明らかにしている点にあります。「上位」のグループの授業では「科学的な推論と論理」「研究の方法」「批判的思考」「分析と解釈と評価」「創造的考察」「自分の考えの確信」「多様な意見の交流」「問題解決的思考」「資料や経験の活用」など、教育内容の理解を深める高度の豊かな学びが経験されているのに対して、「下位」のグループの授業では「学習の規律」「自尊感情」「基礎技能の訓練」「学習態度の訓練」「学習習慣の形成」など、生徒の態度や習慣の形成に重点が置かれ、教育内容としては低いレベルの基礎技能の習熟に限定されていると、オークスは報告しています。「上位」グループの学びの経験と「下位」グループの学びの経験は、その内容のレベルだけでなく、その性格においても決定的とも言える差異が生じています。
[図:一斉授業は習熟度別より上回る(算数)]
さらに、オークスは「上位」グループと「下位」グループの授業における「学習機会」や「学習環境」も比較し、「生徒の問いへの応答の時間」「学習活動の時間」「宿題の時間」などのいずれの項目においても、「上位」グループのほうが優れた教育を実施していると指摘しています。
(4)学校全体の学力向上にとって有効な方法は?
オークスの綿密な調査研究は、「習熟度(能力)別指導」が「上位」グループの一部の生徒にのみ有効に機能することを示しています。「上位」の多くの生徒と「中位」の生徒にとって無益であり「下位」の生徒にとって有害な「習熟度(能力)別指導」が、学校全体の学力向上にとって無益であることは、もはや言うまでもないでしょう。「習熟度(能力)別指導」は、「中位」「下位」グループの学びを低次元に押し留め、生徒間の学力格差を拡大して学校全体の学力を抑制してしまうというのが、オークスを初めとする一連の調査研究の結論です。
・差別教育としての「習熟度(能力)別指導」
オークスの調査研究はもう1つ重大な指摘を行っています。「習熟度(能力)別指導」が、人種差別の手段として活用され、人種差別を助長する機能をはたしていることです。「習熟度(能力)別指導」は、人種が混在した学校において頻繁に導入されていますし、それらの学校では「上位」グループに白人中産階級「中位」グループに白人労働者階級、そして「下位」グループに黒人やヒスパニックが集まる傾向が顕著に見られます。その事実は「習熟度(能力)別指導」が差別の手段として活用され、差別を促進する機能を果たしていることを示しています。「あの子たちとは一緒に学びたくない」という排除と差別の思想が「習熟度(能力)別指導」の根幹にあることは明瞭です。
「習熟度(能力)別指導」を含むトラッキングが、排除と差別の機能を果たすことは欧米の教育においては常識となっています。だからこそ、1960年代から70年代にかけて、イギリスを始めとする欧米諸国はトラッキングの廃止を中心課題とする教育改革を推進したのです。
トラッキングとストリーミングを廃止しコンプレヘンシブ・スクール (総合制中等学校) に一元化される前のイギリスでは、中等学校では11歳児選択試験(===)によってグラマー・スクール、テクニカル・スクール、モダン・スクールの三つに分けられていました。イギリスだけではありません。ほとんどの ヨーロッパの国々が同様のシステムをとっていました。このトラッキングによる三分岐システムは、上流・中流階級によるエリート教育の独占と階級差別の固定化によるものでした。30年以上にわたって展開されているヨーロッパ諸国における三分岐システムを廃止し中等教育を総合化する改革の経験は、トラッキングの本質が人種と階級と階層の差別を組織化する政治的問題であることを示しています。
・なぜ、普及するのか
[中略] これほど「習熟度(能力)別指導」の無効性と危険性が明白であるにもかかわらず、なぜ「習熟度(能力)別指導」は普及しているのでしょうか。アメリカにおいても「習熟度(能力)別指導」は激減したとは言え、小学校の読み方における小グループ指導やハイスクールにおける数学などの選択科目において「習熟度(能力)別指導」は、現在も根強く残っています。そして、日本を含むアジア諸国では、近年「習熟度(能力)別指導」が急激に普及するという時代錯誤の現象がおこっています。その背景に人種差別、階級と階層の差別という政治的問題が潜んでいることはすでに指摘しました。しかし、「習熟度(能力)別指導」の普及の要因を政治的問題に解消することはできません。いったい、なぜ「習熟度(能力)別指導」は容易に普及し学校に根をはってしまうのでしょうか。
その要因の一つは、子どもや親そして教師の多くが抱いている素朴な観念にあると思います。その素朴な観念とは、習熟度や能力の異なった集団で授業を受けるよりも、できる子はできる子同士で授業を受け、できない子はできない子同士で授業を受けた方が教育の効果があがるという考え方であり、できる子は高いレベルの内容、できない子は低いレベルの内容で教えたほうが教育的に効果があるという考え方です。
この素朴な観念がいかに多くの間違いを含んでいるかは、オークスの研究をはじめ、これまでの膨大な調査研究の結果が示しているとおりです。しかし、それにもかかわらず、この素朴な観念は簡単に揺らぐことはないでしょう。この素朴な観念は、分かりきったことを教えられ理解できなかった「できない子」としての体験という個々人の被教育体験にもとづく実感によって形成されてきたものだからです。
この素朴な実感の前提ヲ問い直す必要があります。一つは、この素朴な実感は、いずれも画一的な一斉授業を前提としていることです。確かに、画一的な一斉授業はを想定する限り、「習熟度(能力)別指導」は一定の妥当性を持っているように思われます。しかし、教師が教卓に立って黒板と教科書を使って説明し、生徒がノートに筆記して試験に構えるという伝統的な授業のスタイルは、今や欧米諸国では博物館に入っています。現代の教室は、テーブルで構成された小グループの協同学習を基本としており、プロジェクト単元による集団的な学びが展開されています。しかも、いかに多くの知識や技能を習得するかという学びの「量」よりも、いかに豊かに深く経験するかという学びの「質」が価値を持つように変化しています。今日の「習熟度(能力)別指導」の是非を問うには、21世紀型の学びに即して、その功罪が検討されなければなりません。
次に上記の素朴な観念における学びは、計算技能や漢字の習得など、低いレベルの学びが想定されています。確かに自動車学校のように所定の技能が段階的に配列された課程であれば、「習熟度(能力)別指導」の有効性は明らかです。しかし、学校カリキュラムにおいて計算技能や漢字などの基礎技能の領域はほんの一部でしかありません。「習熟度(能力)別指導」に適応する教育内容は、カリキュラムの一部と言ってよいでしょう。
さらに、どのクラスにも数人の優秀な生徒が存在し、どのクラスにも数人の学習に困難を抱えている生徒が存在しています。この上位と下位の数人の生徒の存在、特に学習に困難を抱えている生徒の存在が「習熟度(能力)別指導」を導入する主たる動機の一つになっています。これらの数人の生徒を放置しておくのは問題ですが、しかし、これら数人の生徒のために、すべての生徒を「習熟度(能力)別指導」に組織するのは乱暴極まりない措置です。特別に優秀な生徒や特別に困難を抱えている生徒に対しては、選択科目や部活動や授業外の指導で対応すべきだと思います。これまでの日本の学校のカリキュラムは、一人いとりの必用に応えて授業外に英才教育や補習教育を行う柔軟性を欠いていました。
・競争か協力か
「習熟度(能力)別指導」に代替(だいたい)する学びの様式は、一斉授業による学びではありません。一人ひとりの多様性が交流される「協同的な学び(collaborative learning)です。「習熟度(能力)別指導」を批判する研究は、いずれも「協同的な学び」あるいは「協力的な学び」は、個人主義の競争を排除し、多様な能力や個性をもった子どもたちが共存・共生してお互いの差異を交流して学び合う「互恵的な学び(reciprocal learning)」を準備しています。
「競争か協力か」という問いは、長年、教育にとって論争問題の一つでした。ほとんどの人は「競争」による動機づけをなくしてしますと、学びの意欲は低下し学びの生産性は損なわれてしまうと考えています。一般の人がそう考えているだけでなく、教師の多くも、あるいは教育学者と教育心理学者の多くも「競争」は学びの動機づけとして決定的であると想定してきました。「競争」を学びの推進力とみる考え方は学校教育の隅々に浸透しています。受験競争はその典型ですが、学期ごとの中間テストと期末テストによる評価、あるいは日々の授業に見られる「発言競争」なども競争文化の一つの表れと言ってよいでしょう。
しかし、実証的な調査研究はいずれも、個人主義的な「競争」が学びを促進するという一般の通念を覆(くつがえ)す結果を示しています。その代表的研究は、1981年に公表された社会心理学者のデビッド・ジョンソンとロジャー・ジョンソンによる「競争か協力か」をテーマとする122の調査研究のメタ分析を行っています。その結果、「協力的な学び」が「競争的な学び」よりも高い学力を達成したという研究が65件、反対の結果を示す研究が8件、両者が統計上の有意な差異を生み出していないという研究が36件でした。「競争」に対する「協力」の優位性は明らかです。さらに、ジョンソンらは「個人学習」と「協力的な学び」の比較も行っています。その結果、前掲の122件のうち「協力的な学び」が「個人学習」おりも高い学力をもたらすという研究が108件、その反対が6件、両者の間に違いはないという研究が42件でした。「協力的な学び」の優位性は明瞭です。すべての実験場面で、またすべての年齢集団で「協力的な学び」は「個人学習」よりも高い達成を示していました。
「競争よりも協力が生産性を高める」という結果は、社会心理学の創始者の一人であり、集団の民主化の過程を研究したクルト・レヴィンが洞察していた事柄であり、レヴィンの弟子のモートン・ドイッチェが1848年に大学生を対象に行った実験によって証明していた事柄でした。ジョンソンらはドイッチェのを薫陶(くんとう)をうけた研究者たちでした。
ドイッチェやジョンソンらにとって「競争よりも協力が生産性を高める」という調査結果は、おそらく予想通りの結果であったでしょうが、「競争」と「協力」の生産性に対する効果を比較した多くの研究者は、自らの調査や実験の結果に一様に驚いています。それだけ、アメリカの個人主義の競争社会では「競争」に対する神話が強く人々の心を支配していると言ってよいでしょう。
しかし、研究者の反応はともあり、「競争」と「協力」の効果を比較した実証的研究は、その大半が「競争」に対する「協力」の優位性を証明しています。ジョンソンらは、個人間の「競争」を「協力」と比較しただけでなく、「協力的な学び」を推進する集団間に「競争」がある場合とない場合も比較しています。その結果も集団間に「競争」のない「協力的な学び」のほうが、集団間に「競争」がある「協力的な学び」よりも高い達成を示すことを実証しています。個人間であれ集団間であり、「競争」は学びの生産性と達成に否定的影響しかもたらさないことが実証されたのです。[中略]
ジョンソンらの調査研究は、教室の学びにおいて「競争」よりも「協力」の効果が絶大であることを証明しただけではありません。「協力的な学び」の恩恵が、「下位」の生徒や「中位」の生徒だけでなく「上位」の生徒に及んでいることも示しています。これも一般の常識とは大きく異なっています。一般に多様な能力の子どもたちが「協力的な学び」を展開すると、「下位」や「中位」の子どもはメリットを受けるけれど、「上位」の子どもは「下位」や「中位」の子へのサービスを提供しても、自らが恩恵に浴するとは考えられてこなかったからです。「協力的な学び」の恩恵は、上位者の犠牲の上に成り立つと考えられてきましたが、その常識は誤りであることをジョンソンらの研究は示したのです。[中略]
・個人主義の克服
結局、「習熟度(能力)別指導」が失敗してしまうのは、(1)教育内容を易しいものから難しいものへと段階的に配列し、(2)子どもを「習熟度(能力)」で低いものから高いものへと直線的に配列し、この二つをグルーピングによって結びつけたことにありました。このやり方では、授業のスタイルも学びのスタイルも変化していません。しかし、多様な能力や個性に応じる教育は、先ず授業と学びのスタイルを変えることを課題とすべきではないでしょうか。
欧米諸国においては「トラッキング」や「ストリーミング」による「習熟度(能力)別指導」は姿を消しつつありますが、それに替わって「協同学習(collaborative learning)」(あるいは「協力学習(cooperative learning)」)が
普及し、めざましい成果をあげています。欧米の学校では、もはや一つひとつの机が黒板と教卓に向かって整然を並べられた教室はほぼ消滅していると言ってよいでしょう。学びの協同と協力を促進するために、教室はいくつかのテーブルで構成され、4-5人ずつが学び合う教室へと変貌しています。実際、「協力学習」の提唱とその効果の調査を積み重ねてきたジョンズ・ホプキンズ大学のロバート・スレィヴィンの調査研究によれば、子どもの能力や到達度の多様性に対応して学力を向上させる方法として「協力学習」以上に効果的な方法はないと断言されています。ただし、スレィヴィンはどんな教師でも実践できるように「協力学習」を細かくマニュアル化する傾向があります(Slavin, Robert., Cooperative Learning. Allyn and Bacon, 1990, 1995)
「協同学習」は、もともと今世紀初頭の新教育運動において成立し普及した学びのスタイルです。「協同学習」のもっとも古い写真は、1896年にデューイがシカゴ大学に創設した実験学校の学びの様子を記録した写真です。当時、アメリカの一般の学校の机と椅子はボルトで固定され、教師は教科書と黒板とチョークと鞭を持って教壇に立ち、子どもは3人がけの長細い机にばらばらに座って学んでいました。デューイを始め新教育の改革者たちは、机と椅子のボルトをはずし、子どもたちが協力し協同して学び合う教室への改革を推進したのです。その後、「協同学習」は新教育の浸透と併行して緩やかに普及しますが、この20年間、先進諸国のほとんどの教室に普及するにいたっています。
一体、なぜ「協同学習」が、先進諸国においてこれほど普及したのでしょうか。その理由は、いくつか考えられます。その最大の要因は、先にも述べましたが、産業主義の時代からポスト産業主義の時代へと移行して、学校に求められる学力が変化したことです。
産業主義の社会は、一部のエリートと大多数の単純労働者というピラミッド構造で労働市場が形成されます。そして、そこで求められるのは「効率性」であり「効率性」をめぐる競争です。しかし、ポスト産業主義は、知識が高度化し複合化し流動化する社会です。単純労働は激減し、労働市場は上部が肥大した逆ピラミッド型へと移行します。学校教育において求められるのは「高度の複合的な知識」であり「創造的思考や問題解決能力やコミュニケーション能力」です。知識と学びの「量」から「質」への転換が起こっているのです。
OECDのPISA調査の結果において、第1位のフィンランドと第2位のカナダと第4位のオーストラリアに共通の特徴があります。これらの国々は人口密度が少ないため、複式学習の教室が多いのが特徴です。カリフォルニア州のトラッキング(能力別指導)の有効性を調査したオークスの研究においても、「複式学級」か「無学年制」を採用していた教室が効果的という逆説的な結果が報告されていました。これらの現象は多様な能力や習熟度の子どもたちが共に学ぶ「協同学習」の有効性を実証しています。「複式学級」において子どもは、半分の教育内容を二度学ぶことになります。つまり「複式学級」は学びの「量」や「効率性」においては劣っているのですが、学びの「質」や「発展性」において優れています。さらに「複式学級」では、当然のことながら能力と習熟度に大きな差異を生じます。この差異が、「協同学習」というスタイルを媒介として一人ひとりの学びを刺激し豊かにしているのです。
一斉授業や個人学習において教室における能力や習熟度の差異は一人ひとりの学びにおいて障害となります。しかし、「協同学習」において、能力や習熟度の差異は学びの契機(けいき)と発展の基礎となるのです。「習熟度(能力)別指導」の失敗の要因は、「効率性」と「競争」に呪縛されて学びを個人主義の枠に閉じ込め、「協同」と「協力」による学びの契機と発展の可能性を見失ったところにあるのです。
(佐藤学『習熟度別指導の何が問題か』岩波ブックレットNo.612, 2004年)